my bright tomorrow.

明日に向かってゴーゴゴー。

「新しい」という形容詞が特定のモデルを指さなくなる頃。

新しいiPadは、いつまで新しいのか。


photo credit: @NickyColman via photopin cc


発売日に手に入れる事が出来たワタシは幸運だったらしいが、世間的には未だ「新しいiPad」は容易に入手が出来る状態にまで至っていないということらしい。
その意味に於いて、まだ「新しいiPad」はその新しさを失っていないのだが、しかし。


表示されるものが綺麗に見える。
今までがそうでなかっただけで、実は至極当たり前の事が当たり前になった今、「そうでないものが劣って見える」ことはあっても「当たり前のものがいつまでも新しい」と感じてばかりもいられない。


つまり、慣れた。


もしかすると、まだまだ「当たり前なことを新鮮に感じている」人の方が相対的に多いため、世間一般としては「新しいiPad」という名称にそれほど違和感を感じないのかもしれないけれど、いずれそれがスタンダードとなり当たり前に感じる人が大多数を占める頃には、今以上に「新しいiPad」という名称がひどく似つかわしいと感じられるに違いない。


その時、晴れて「新しいiPad」は「iPad」に変わり、「新しい」という形容詞に特定のモデルを意味させるような、妙に落ちつかない気持ちから解放されるのだと思う。